すべては最善であるとするならば?
という発想から物事をみてはどうだろう。
そう考えると、納得がいかない出来事も
納得できてこないだろうか?
新しい考えを授けるためにわたしに
そのような出来事を与えられたのかも
しれない。
文句ばかりを言いたくなってしまうが
なにゆえにその文句を言いたくなって
しまうのか考えたことがあるだろうか?
それはきっと自分がかわいいからに
ちがいない。
そして見かねた神が上乗せのギフトと
して納得のいかない出来事を用意して
くれていたとしたらどうだろう。
納得がいかない出来事を
“上乗せのギフト”だととらえることが
できたとしたらどうだろう?
そう考えるとお得感が増してこないか?
悪いほうに悪いほうに考えても自分が
苦しくなるだけだから、ハッピーが
倍増するように“上乗せ思考“というのを
神から与えられていたとしたら
どうだろう。
わたしの物事の見方をさらにバージョン
アップさせるために、そのような
プラスアルファの出来事として届けられ
ていたのだとしたらどうだろう。
嫌気がさし、文句を言いたくなるような
出来事も実はわたしをグレードアップ
させるために起こっているのだとしたら?
少しは気持ちが楽になったりしない
だろうか?
思い通りの現実として現れてこなかった
としても、どうしても許せないと思って
いたとしても、そういう考えを一掃
させるべくしてこの出来事に遭遇
しているのだとしたら。
考えを改めさせるために、この出来事が
起こっているのだとしたら。
そこには目に見えない世界からの愛が
込められているように感じられない
だろうか?
「そんなのはいりません!」と言いたく
なる気持ちもわかるが、納得がいかない
ものを受け入れることができるように
なることを学ぶことこそが、わたしに
とっての最大の恩恵なのだとしたら
どうだろう。
それこそが、この経験から得られる
最大の恩恵なのだとしたら?
形ある恩恵の裏で、無形の恩恵を同時に
授けられているのだとしたら?
形ある豊かさとともに、形のない精神の
豊かさまでも同時に与えられているの
だとしたら?
形あるものだけにとどまらず、無形の
豊かさを得られているのだとしたら
どうだろう。
それが鍵のかかった扉を開ける鍵に
なっていたのだとしたら?
どうしても自分ひとりでは開けられ
なかった扉が、その一見厄介だと思える
出来事により開かれていたのだとしたら
どうだろう。
言い換えるとするならば、
“見えない世界の扉”と呼んでもいいの
かもしれない。
その“見えない世界の扉”というのが
その納得のいかない出来事により開かれ
ていたのだとしたら?
これがもしも平々凡々なギフトでは
ないものなのだとしたら?
この納得のいかない出来事がわたしに
多大な恩恵をもたらすのだとしたら?
この一見ネガティブに見える出来事こそ
がわたしに与えられた最大のギフトなの
だとしたら?
そのように考えていくと、実はこの経験
に隠されているものというのが悪い側面
ばかりではないということに気づか
されていく。
この経験から得られたものと失ったもの
を比較してみると、実は得られたものの
ほうが多くあるのかもしれない。
失望とは望みを失うと書く。
つまり、望みを失ったわけだがそれは
失っても大丈夫な望みであった可能性も
容易にある。
もしかすると、ほんとに不要な思い込み
だった可能性でもあるわけだ。
そんな不必要な思い込みは捨てちまいな
と宇宙さんが厄落としとしてこのような
イベントを用意してくれたのかもしれない。
となると、その変な思い込みの山を
ブルトーザーかなにかで更地にされた
わけだ。
そういうふうにとらえてみると
これはほんとにありがたい出来事だった
のかもしれない。
そう考えたほうが、自分的にも楽である。
真実はどうとか考えるより、自分が
納得のいく考えを当てはめてあげるほう
が収まりがよいし、しっくりくる。
そんな感じで受け取ってみてはいかが
だろうか?
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