くうきのうた

頭の中のアウトプット、思考の整理、日々の記録、占星術の独自考察やメモなどを書いてるblogです。

愛の発動スイッチをオンにする

 

 

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わたしがほんとうに愛したいのは

だれなのか。

 

自分に他ならないのではないかと思う。

 

他者からの愛に依存するのではなく

自分自身との愛の交流にいそしんであげる。

 

これができたら、愛にまつわるゲームを

クリアすることができるのではなかろうか。

 

愛の具現化とはそういった自分との

ゲームを終わらせたのちにやってくる

のかもしれない。

 

他者との結びつきのなかで、感じさせら

れることは実はそういったことだったり

する。

 

どのように生きれば正解なのかという

明確なこたえは存在しないように思う。

 

それぞれが個々の能力や存在を認める

ことにより成り立つものがあるとすれば

自分を認めてあげることだけで

丸くおさまるのだと思う。

 

そして、それはわざわざ他者から承認を

求めなくても自分ひとりで可能なこと

ではないだろうか。

 

自分はひとりしかいないのだから、

自分にしかない魅力というものを

みんなが持っているのだと思う。

 

それは他者と比較する必要も、謙遜する

必要もなくて、自分にしかない魅力

なのではないだろうか。

 

そう考えると、ひとりひとりが

おもしろい存在なのだと思えてくる。

 

宇宙が地球にもたらしたもの、

それが人間。

 

わたしの脳みそから発せられる言葉たち。

 

わたしという宇宙の種から、発せられる

言語たち。

 

もしかしたら、宇宙からくる言葉を

わたしが受信して、そのまま自分の言葉

だと錯覚して、話しているだけなのかも

しれない。

 

なにかを勘違いして、話しているだけ

なのかもしれない。

 

自分への愛があるからこそ、人は生存を

自分に許すことができるのではない

だろうか。

 

どんなに自分のことがきらいでも、

どんなに自分の醜さを知っていたと

しても、許せてしまうのは自分への愛が

あるおかげなのだと思う。

 

逆に許せない場合も、許さないことが

自分への愛だというマイルールが

できあがっているのだろう。

 

自分に課したマイルールにより、

人生が展開していくのだとしたら?

 

そして、その制限をとっぱらうことで

見えてくる世界があるのだとしたら?

 

なんにも偽りのない世界が見えてくる

のかもしれない。

 

おそれもなにもない、ただ純粋な愛だけ

の世界が。

 

愛というものすらあるのかどうかも

わからない世界かもしれない。

 

ただそこは、生きていくための

必要なものだけがあればいいだけの世界

なのかもしれない。

 

世間が愛だと認識しているものとは

少し違ってくるかもしれない。

 

正確にいうと、自分を含む自分の世界を

愛することなのだと思う。

 

さて、そういうわけで、自分への愛を

存分に感じてあげよう。

 

ほんとうの意味で自分を認めてあげる

ことができたら、なにも必要が

なくなってしまうかもしれない。

 

でも、それでいいのだと思う。

 

それが自分という命を生きるということ

かもしれないから。

 

 

#愛の発動

#自愛

#日記

 

 

全部ヨシとする

 

 

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ありとあらゆるものが水のように

流れていく。

 

わたしにはそんなふうに見えている。

 

時間もお金も人も空間も。

 

まるで旅行中にみる車窓からの景色の

ように。

 

現実世界と夢の世界を比べたときに

違うのはなにか、と考えてみる。

 

心の世界と現実の世界を横において

見比べてみる。

 

人生における障害とは、人生のトピック

としてあがってくるけど、それ自体

自分のなかにもともとあったもの

なのかもしれない、と思えてきた。

 

わたしが持っていたものが、現実の

世界に事象として現れてきたときに

障害という形で目にみえてくるのかも

しれない。

 

内在していたものが、現実にわかり

やすい目に見える形として現れたものが

障害として目に映るようになっているの

かもしれない。

 

つまり、内的世界を実世界に映したもの

に目が向くようにできているのだろう。

 

ということは、障害を障害として見る

必要はないのかもしれない。

 

自分の心の状態(もしくは精神構造)が

そのようになっていますよ、という

お知らせに過ぎないのかもしれない。

 

ほんとはなんにも問題などなくて

ただ自分の内的世界を形を変えて現実に

見ているだけなのだとしたら、どんな

問題も全部自分のものとして受け入れら

れるのではなかろうか。

 

形を変えて、というのがミソである。

 

形を変えて、他者がその演技をして

くれる。

 

そして、それに自分が反応して

困惑する。

 

自分が自分の中身をみて、やれこうだ、

あれこうだ、と心の中で議論している

だけなのだとしたら?

 

そして、わたし自身も他者がつくりだす

現実世界に出演させていただき、なに

かしらの演技や、表現をまかされている。

 

その相手の思惑通りに動いていないと

出演NGなんてことにもなったりするの

かもしれない。

 

思惑通りに動いていなくても、見る相手

によってはヨシとされることもあるの

かもしれない。

 

そのジャッジをくだすのは相手の視線

であり、自分と相手の思惑が大幅に

ズレていることだってあるのだろう。

 

そういうときに、不満の声というのが

生まれてくるのかもしれない。

 

 

なにを書きたかったのか?

 

現実世界は想像の世界とも言える。

 

だれかが生み出した世界の中に

われわれは生かされているのだろう。

 

ゆかいな世界もあれば、辛辣な世界も

ある。

 

求めている世界の現象と一致する世界を

作り出すことができる。

 

となるならば、今ある世界は自分が

望んだ世界ということになる。

 

なにもなければ、なにもないことを

望んだのだろう。

 

なにかあるならば、なにかあることを

望んだのだろう。

 

自分に対して肯定的な世界か、否定的な

世界か、まわりの人たちの意見をよく

聞いてみるとよいのかもしれない。

 

昔は否定的なことを言ってくる人が

多かったが、最近はそうでもなくなって

きたというのがわたしの実情のように

思う。。

 

目に見えない変化というのは、観測

しにくい対象ではあるが、自分のなかで

昔よりはよくなったと思えれば、それで

いいのではないだろうか。

 

 

と、自分で自分に言い聞かせることに

した。

 

 

 

以上、

 

自分のなかの思い込みが現実をつくって

いるのかもしれないね、というお話

でした。

 

 

#思い込み

#現実

#自分のマニュアル

#空間

#日記

ふわふわUFO体をつくる

 

 

 

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宇宙の法則として、

“必要なものは与えられる“という

法則があったとする。

 

それを逆に考えると

“必要でないものは与えられない“という

ことになったりするのかなぁと思う。

 

ということは、今与えられていない

と思うものがあるとすれば、それは

“必要がないから与えられていない“

という見方もできるのではないだろうか。

 

手放しをして得られるものも

あるとは思う。

 

でも、手放さなくとも入ってくるときは

ちゃんと入ってきたりする。

 

そもそも、わたしの経験談として

言えるのは自然と片付けをしようと

思えたときというのは、人生の流れが

変わっていくときなのだと思う。

 

なんとなくではあるが、無性ーーに

ものを片付けたい衝動にかられ

一気に片付けが終わったという体験を

何度かしている。

 

あとは、関係性に悩んでいるときという

のはその関係がタイミングでなかったり

惰性での付き合いだったりするとき

なのだと思う。

 

ほんとうに心の底から望んでいる

付き合いであれば、きっとそういうこと

で悩まないのではないだろうか。

 

言い方を変えると、今の自分に

そぐわない付き合いとも言えるだろう。

 

ものでも人でも場所でも環境でも

強制的に付き合いを辞めさせられる

関係とは、宇宙に見直しを迫られている

ときなのかもしれない。

 

そのモヤモヤした感情を持ったまま

付き合うのであれば、信頼関係を

壊しますよ、となにかしらの破壊に似た

現象が起こってくるのだろう。

 

ここでいう信頼関係とは、人や自分と

いう対象もそうだけど、宇宙との

信頼関係といったところにもある。

 

自分や他人を含め、自分との宇宙との

信頼関係がわたしにはあるような

気がしている。

 

俗にいう、「おてんとうさまはいつも

みている」というような感じである。

 

わたしが考えることと、宇宙が示す

ことと違っている場合もある。

 

そういうときは自分のなかに抵抗が

生まれたとしても、宇宙に従うほうが

いいのかなと思ったりしている。

 

それが、なんとなくこうしてみようと

いうような行動につながったりする。

 

 

 

そして、

 

少し前に、体って宇宙体なんだという

ことに気づいた。

 

言い方を変えると、UFO体なんだと

思った。

 

それを体感で感じ取る瞬間があって

ふわふわのUFO体になることが

今必要なこと?のように思う。

 

そして、そのお手伝いをすることが

できたらいいのかな、なんて思って

いたりする。

 

(ふわふわUFO体。笑)

 

体は思考に左右されるし、思考も

体を左右する部分があると思う。

 

体を整えることや、思考を整えること

で、いい流れが生まれてきたりする。

 

体に触れ合いっこすることで生まれる

エネルギーというのも存在するんじゃ

なかろうかとわたしは思う。

 

そんな感じで、ふわふわUFO体を

つくっていくマッサージを行って

いけたらいいなぁなんて思ったりして

いる。。

 

 

 

#ふわふわUFO体

#マッサージ

#施術

#ヒーリング

#日記

 

 

 

 

 

エゴとの調和

 

 

 

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諦めることにフォーカスしてみる。

 

なにを諦めるか。

 

もう自分に機能しなくなったもの。

 

ぜんぜん楽しく機能しないもの。

 

機能していないもの、循環していない

ものに対してもう諦めをつけようと

思えた。

 

いうなれば、負のループになっている

もの。

 

伸びしろがないもの。

 

プラスに発展させていけそうにないもの。

 

そういったものとおさらばしよう。

 

もう機能していないもの。

 

見渡してみるとたくさんあるんじゃない

かと思えてきた。

 

見ちゃいけないもの、見たくはないもの。

 

不要な回線を断ち切っていく。

 

不要な思い込みなどもそうだ。

 

もっと広域な宇宙に心を開いてみても

いいのではないか。

 

自分を狭いところに閉じ込めることを

よしとしなくてもいいのかもしれない。

 

理想どおりの自分じゃなくても

いいのかもしれない。

 

ありきたりの自分を捨ててしまっても

いいのかもしれない。

 

いうなれば、自分を捨てるということ。

 

内的な自分を捨てるということ。

 

母に置きざりにされた記憶というのは

これと紐づいているのかもしれない。

 

エゴの声を無視すること。

 

無視するというのは、あまり嬉しくない

ことであるのだが、エゴの声に耳を

傾けるより、エゴの声はスルーして

あげるほうが自分にとっては親切な気が

する。

 

エゴの声に耳を傾けすぎるとほんとに

苦しくなってくる。

 

自分を苦しくさせるのは、他人じゃなく

て、実は自分のエゴなんじゃないかと

思った。

 

エゴの声を一個一個拾っていったとして

も、なんにもなっていない気がする。

 

自分のエゴは満足するかもしれない。

 

近くにいる自分に近しい人をみていて

そう感じた。

 

自分のエゴというもので、自分が

苦しんでいるだけなんじゃないか、と。

 

まわりはなにも悪くないんだと。

 

まわりを勝手に悪者にしてしまう

エゴのしわざなんじゃないかと。

 

エゴの声をうまーく自分のなかに調和

させて、ハイアーセルフと一体化する。

 

この形ができたらすごい楽なんじゃ

ないかと思えた。

 

コントロールしようとしても、エゴは

不足をみつけては自分を苦しませる

方向に持っていこうとする性質が

あるように思う。

 

だから、エゴで考える方向性よりも

体やなんとなくという感覚に従った方が

いいような気がしている。

 

エゴは不足感を生み出している気がする。

 

 

エゴの声をスルーして、循環の流れに

乗った方がいいのではないか。

 

そのほうがスムーズであり、自分にも

他人にも優しくなれる気がしている。

 

加えて、エゴの声を大人しくする方法

というのが“安心感“にあるのではないか

と思う。

 

エゴが何を求めているのか、それは

きっと安心したいという欲求だからだ。

 

(わたしが思うに。)

 

宙ぶらりんのエゴちゃんが、わたしを

安心させてくれと言われんばかりに

騒ぎ出す。

 

暴れるときは、要は安心させてあげれば

いいだけのことなのかもしれない。

 

たぶん、エゴというのは不安がっている

だけなのだろう。

 

心配ないよ、と声をかけてあげれば

すんなりと落ちついてくれるような

気がする。

 

そういうわけで、安心感ってとても

重要なものだったんだな。

 

自分を安心させてあげること、

他人を安心させてあげること、

これができたらいいのかもしれない✨

 

 

 

#エゴの声

#調和

ハイアーセルフ

#体感日記

#日常

おもしろい声色

 

 

 

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隠していることはなんとなくわかって

しまうのかもしれない。

 

知られたくないことももしかすると人に

バレているのかもしれない。

 

そう思うと、隠そうとしても隠しきれ

ないものがあるんだろうなぁと

思ったりする。

 

だれかを信用したり、信頼したり

相手を見て、なにを感じているのか。

 

わたしを見て、相手はなにを感じ取って

いるのか。

 

お互いにどういったことを感じあって

いるのか。

 

そんなことを感じたりしていた。

 

自分が相手と仲良くしたくても、相手が

そうじゃなかったとしたら関係を深める

ことに戸惑いが生まれてしまう。

 

そういったなかで、相手がどう思って

いるのかを知る手がかりになるのは、

実は声色だったりするのかなぁなんて

思ったりする。

 

逆に自分も好きな相手に対しては

声のトーンがあがっていたりする

ことがよくある。

 

人とコミュニケーションを日頃から

とっているのだろうと感じられる人と

そうでない人というのも声色を

聞いていると見えてくるものがあったり

する。

 

そうしたなかで、タイトルにも

書いたようにおもしろい声色の人に

出会うことがある。

 

気になったらもう最後。

 

なんだ、この声、、、

 

とおもわず聞き入ってしまう感じの声だ。

 

わたしのお耳がなんだ、なんだ?と

惹きつけられてしまう。

 

そういった特徴的な声色を持っている人

というのは、なにかしら自分の興味を

そそるものを持っている人なのだろう。

 

それか、相手の一種のパフォーマンスで

ある可能性も高い。

 

エネルギー値が高そうにみえる人の声は

脳内で思い返したりできたりする。

 

逆に発言は覚えているけど、声色まで

思い出せないという声もあったりする。

 

そんな感じで、他人の声色について

語ってしまったが、当の本人の声色は

どうなんだ?というところだ。

 

声色がおもしろいと感じるときという

のは、わりと活力に満ちているとき

なのかもしれない。

 

ということは、声色というのは

気分のバロメーターにもなりえるのでは

ないかと思った。

 

声の感じ、声の出し方、声の調子、

などなど、、

 

その人の内側が今どんな感じなのかを

知る手がかりにしてもいいのかも

しれないと思った。

 

 

 

今日の日記はこんな感じで。

 

 

#声

#声色

#発声

#気分

#相手の様子

 

 

自分の中心軸

 

 

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天とつながりたくてわれわれは

生きているのか?

 

実はつながりたいと思っているのは、

他人ではなく自分の中心なのではないか?

 

中心軸がわからなくて自分を知りたくて

他人や周りに答えを求めようとしている

こともあったりするのではないだろうか。

 

中心軸というのは、自分と他人という軸

ではなく、自分の土台と自分と宇宙が

つながるポイントのことである。

 

言い換えると天の自分と地の自分。

 

占星術でいうところのIC–MCのラインだ。

 

占星術を学んでいくとアセンダント

大事だよ、とよく書いてあるので

そうなのかーと思っていたりしたのだが、

自分軸を形成するうえで

大事なのは実はICと MCのラインなの

かもしれない。

 

MCは宇宙とつながるポイントだと

書いてあるのをどこかで読んだ。

 

それを考えるとあなどれないポイントで

あることは確かだ。

 

星があろうとなかろうと作用が働いて

いるように思う。

 

そう思うと、わたしのIC–MCラインは

蟹座と山羊座なので家庭と社会を

大事にしたほうがいいように思う。

 

それがわたしが大事にしたほうがいい

中心軸なんだと思う。

 

今までは自分と他人に重きを置いていた。

 

しかし、そこに行き詰まりを感じるよう

になった。

 

最近思うのは、星のあるなしに関わらず

バランスをとることなんじゃないかと

いうことである。

 

星の入っている場所は、大体の場合

そういう傾向がほっといても現実に

あらわれてきている。

 

実は星が入っていない場所がじぶんが

気楽にやれるポイントだったり

するのではないか、とひそかに思っていた。

 

要は星の入っている場所というのは、

大体なんらかの問題などで

自分の傾向として認識しやすかったりする。

 

しかし、その問題を解決しようにも

星の特色として持っているものだから

問題解決が簡単にできるかと言えば

そうでなかったりする場合も多い。

 

そういうときに気休めに働いてくれるの

が、星が入っていない場所だったりする。

 

自分が制限をかけなければ、星が入って

いないからといってそこを使っては

いけないという取り決めはないように思う。

 

なんなら気兼ねなく遊べるだけ、楽で

いいのではないか?と思ってしまう。

 

まぁ、それでなにが言いたかったのか

というとIC–MCラインは見落としがち

だけど、見落とさないほうがいいかもね

ってこと。

 

自分を支えてくれるポイントになって

くれるような気がしている。

 

 

#IC

#MC

占星術

#軸

#大事

主婦見習いにトライ

 

 

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さて、今日はいい日だった。

 

とくになにをしたわけではないが

家でのんびりしていた。

 

すると、自分がほんとうに欲して

いたものがなんだったのかわかった気が

した。

 

わたしが欲しいものは、家庭だったの

かもしれないと思えてきた。

 

わたしはあるときから仕事にのめりこむ

ことに嫌気がさし、仕事をがんばること

はほどほどにしようという気持ちで

働くようになっていた。

 

しかし、頭ではそう思っていても

体はそれを理解できていなかったの

だろう。

 

仕事に執着をしているわけではない

と思っていたが、体は仕事に執着を

しているのではないか、と思えてきた。

 

頭の理解と体の理解が一致していない

のではないかと思えてきた。

 

最近、背中にニキビができたり

腰に違和感を覚えるなど、背中に問題

が起こるようになっていた。

 

体はサインを送ってきているのだと

思う。

 

でも、そのサインがなにを言わんとして

いるのかよく把握できずにいた。

 

腰が痛いなぁー、なんていうことも

できずにいた。

 

腰が痛くても別にいいんだよね。

 

何にも問題なくて。

 

幸せ気分に浸りきっているのだろうか。

 

感覚がマヒしているんだろうか。

 

腰の痛みをひきずってがんばってる

自分をよしとしているのだろうか。

 

でも、別にそんなことを望んでいる

わけではないと思うんだけどなぁ。

 

なんでこんなことになっているの

だろう。

 

ひまを持て余しているのかもしれない。

 

体に違和感を感じることを楽しんで

いるのかもしれない。

 

あたりまえにあることに感謝をするのも

いいけど、あたりまえに感謝をして

そこを抜けていきたい気持ちが

わいてきているのだろう。

 

自分のがんばるところが、仕事ではなく

家庭にあるのだと思う。

 

今まで仕事や趣味などに力を費やして

きたように思う。

 

それに加えて家のこともがんばるように

していけばいいのかもしれない。

 

がんばるベクトルを変えていけば

いいのか。

 

それだけでいいような気がする。

 

仕事ではなく、家のことをがんばる。

 

家事やインテリアについて時間を

費やすようにする。

 

すぐ外出して気を紛らわせようと

してきたが、今向き合いたいのは

家のことなんだろうな。

 

あんまり得意ではない分野ではある

のだけれど。

 

苦手なことをやるはめになるということ

が人生の課題としてあがってくることも

あるのだと思う。

 

わたしが新しく開拓していくところ

といえば、そんなところしかないように

思う。

 

主婦業を習得していくことにしよう。

 

たぶん、わたしが目指すのは仕事じゃ

なくて、家のことだと思う。

 

仕事は二の次で。

 

これからは家のことを優先させること

にトライしてみようと思う。

 

 

 

#主婦見習い

#家事

#見習い

#思ったこと

#挑戦